子供時代
私は3人兄弟の末っ子として生まれました。家族の話によると幼少の頃は風邪ばかりひいて
とても手のかかる子供だったそうです。
そのせいかあるいは末っ子だったこともあって、ちょっと甘やかされて育ったようです。
小学生になった頃からはとても元気になり、2年生頃からはソフトボールに明け暮れた生活でした。
学校の休憩時間や放課後にソフトボール。
土曜日と日曜日も練習や試合をしていました。
6年生の時に、地区大会で優勝、それに続く地区代表が集まった広域大会でも優勝できました。
毎日毎日ソフトボールに明け暮れた日々の最後に優勝という形で報われたことにおおいに自信を得たことを今でもはっきりと覚えています。
父は仕事柄、不在の日がとても多く、一年の3分の2くらいは家にはいませんでした。
父といろいろと遊んだという思い出は少なく、いつもそばにいたのは母であり兄であり姉でした。
特に6歳上の兄は私をとてもかわいがってくれました。
兄は私と違って豪快でパワフルで私の憧れでした。不在がちな父の代わりを兄がしてくれていたように思います。
兄は時には父のようであり時には私の気持ちを一番理解してくれる友人のようでもありました。
その兄の言動から私が学んだことがかなり多かったと思います。
父は忙しい中でも、毎年夏休みには家族旅行に連れて行ってくれました。
車であっちこっちの観光地などに連れて行ってくれましたが、その時の思い出が私の各地方のイメージとして今尚残っています。
中高時代
6年生の夏休みまではソフトボールに明け暮れた毎日でしたが、晩秋になって急に中学受験をすることになりました。
それまでは淳心学院という名前さえ知らなかったのですが、両親・兄・兄の友人の勧めで受験することになりました。
当時、公立中学校の男子は丸坊主だったのですが、私はこれが嫌だったことが自由な校風の淳心学院を受験することにした理由のひとつです。
3ヶ月ほどの準備 期間でよく合格できたものだと今でも思います。
入学した頃はクラスメートとの大きな学力差を覚えることもありましたが、そのせいで必死だったのが功をなして、中学1年生の終わりごろには何とかついていけるようになりました。
その後はスランプを感じる時期もありましたが、とにかく高校卒業まで、両親に学業でとやかく言われることは一度もありませんでした。
今振り返ると、この淳心学院に入学したことが私のこれまでの人生の大きなターニングポイントだったように思います。
自由な校風・情熱溢れる先生方・素晴らしき仲間に囲まれた青春の日々。
男ばかりでしたが、少人数で6年間おなじ学び舎に通った者同士、密度の濃い付き合いをさせてもらいました。
・・・今日まで変わらない友情。今の私にはとても大きな財産です。
こういう環境で私が進路を歯学部に決めた理由は
- 組織の中の一人として活動するよりも、小さくても私自身が引っ張っていく仕事がしたかったこと
- 医療を通じて社会貢献したいという志の仲間に感化されたこと
- 高校生のときに受診した歯科医院で何かピーンと感じるものがあったこと
などがあげられます。
早々と進路を決めている友人たちに比べ、私は自身の適正をなかなか見極めることができず進路を決定するのがとても遅かったのですが、この仕事に就いて20年以上たった今、この歯科の仕事は天職であったと今は声を大にして言えます。
大学時代
家族と離れてひとりで生活していくことに不安もありましたが、そんなことよりこれから始まる新しい環境での生活に胸高まるものを覚えて始まった大学生活。
とにかくなんにでも前向きにチャレンジしていこうと決意したことを昨日のことのように思い出します。
高校時代にはクラブ活動をしませんでしたが、大学ではサークル活動をしようと入学前から決めていました。
- 歯学部限定のサークルでなく大学全体のサークルの中から選ぶ
- スポーツをする
- 中高時代にクラブ活動していない私が初心者としてあまりハンディを感じないスポーツをする
- できれば格好いいスポーツをする
と自分なりに条件を挙げて検討しました。
数多くのサークルの中から選んで飛び込んだのはスケートクラブ(アイスホッケー部門)でした。
はじめはリンクに立つこともできず、体力的にも練習に全く付いていけなかったのですが、
とにかくひたむきに取り組んでいました。
地道な努力は着実に実ってきます。
1年生の終わりごろにはヘタクソではありましたが、練習を引っ張っていけるほどに体力が付いてきました。
"継続は力なり"を実感したものです。
当時、講義終了後、陸上トレーニングは大学のグランドで行われていましたが、リンクでの練習はそのスケートリンクの
営業時間外にありました。つまり早朝か深夜です。
私の住んでいたアパートとスケートリンクはけっこう遠かったのですが、重い防具と長いスティックを担いで自転車で元気よく走っていました。
冬の早朝、張り詰めた空気の中まだ残る星空を見上げながら"なんと美しい!"と感銘を受けたのを今でもよく思い出します。
幸運にもこのスケート部で私は本当に素晴らしい先輩や仲間たちに恵まれました。
人としてあるいは男として本当の強さや優しさをこのときに学びました。
努力することの大切さを教わりました。
前向きに考えることの素晴らしさを気づかせていただきました。
高校時代の狭い世間とは違ってこの世の中には多種多様な人々がいてそれぞれいろんな考え方やものの見方があることにも気づき、毎日がとにかく新鮮でした。
世間でよく言う五月病なんてものには全く無縁で密度の濃い時間を私は過ごさせていただきました。
当時の私は歯学部というよりスケート部といったほうがあたっていたかもしれません。
3年生になって専門の授業が始まると学生本来の姿に戻らざるを得なくなりました。
つまり勉強に追われる日々でした。
アイスホッケーの練習にもあまり出るこ とができなくなり、フォーメーションプレーでチームに迷惑をかけることから、サークル活動を休止しました。
そして基礎医学の勉強に明け暮れる日々になったのですが、今思えばこの3年生4年生の頃が私にはちょっとスランプの時期だったようです。
5年生になり臨床の勉強が始まると俄然歯学の道が興味深いものとなり、"立派な歯医者になるぞー!"と心の底から湧き上がってくるものを感じていました。
そして卒業にあたり、大学に残ることも検討しましたが、より多くの患者の皆様と触れ合うことのできる場を求めて『医療法人昭裕会 山根歯科医院』にお世話になることになりました。
勤務医時代
今現在の私の歯科医としての原点はこの『医療法人昭裕会 山根歯科医院』にあります。
大学を卒業して歯科医師としての資格を得たといってもまだ何もまともにできない私に『医療法人昭裕会 山根歯科医院』の院長先生は1~100まですべて教えてくださいました。時にはやさしく時には厳しく。
それは院長と一従業員の関係というよりも師匠と弟子であったと思います。
診療所と同じ建物内に私の住まいを与えていただき、朝から晩まで本当にたくさんの情熱を傾けて私を指導してくださいました。
また、院長先生の奥様も同じ歯科医師として私に院長先生とは別の角度からいろんなアドバイスをしていただき、母のように優しく私を包んでくださいました。
歯科医師としてあるいは人として、お二人は未熟者の私をどこに出しても恥ずかしくない人間味のある歯科医師にと大きな愛情とともに暖かく育て見守り続けてくださいました。
一時はこのまま『医療法人昭裕会 山根歯科医院』にずーっとお世話になっていようかとの考えもありましたが、高校時代に歯科医師を目指した理由のひとつに、小さくても自分で引っ張っていく組織を作りたいというのがあり、ゼロから築き上げていく小野歯科医院を現在の地に開設いたしました。
私が独立した後、奥様がこの世を突然去られたときには家族を失ったかのような大きな悲しみにしばらくは何も手につかないような有様になってしまいました。
今こうして何とか地域に根ざして診療している姿を奥様は天国からどのように見守ってくださっているのでしょうか?
この勤務医時代に教わったたくさんの経験が私には大きな財産であり、開業当初の厳しい時代に上を目指し前向きになれる勇気を授けてくれました。
そして今・・・
平成3年度3月3日(つまり平成4年3月3日)に現在の地に開業させていただいたのですが、この日を選んだ理由は
- サンサンサンと輝く歯科医院を目指そうと思った
- 私の名前に漢数字の3がはいっている
- この日は大安だった
などです。
開業当初はただガムシャラに働いていましたが、ここにきて時代の変化や患者の皆様の要望が変わってきたことを受け、地域の皆様方のよりたくさんの幸せや豊かな生活を応援するために、下記にある小野歯科医院の理念のもと、平成17年8月に全面リニューアルいたしました。
スタッフとともに毎日が勉強で、患者様の笑顔に励まされながら常に前進していきます。